牧歌的
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辞書によって、「理想化している」などというプラスなイメージが含まれるかどうかは異なっている。また、場合によっては「田舎っぽい」というマイナスイメージが含まれる場合がある。
して、私が普段受けている講習の講師がときたまこの表現を遣うので、私もたまーに使っている。 一昔前のシステム運用、人々を縛るルール・法律、娯楽的なコンテンツ、どれを取ってみてもそれなりに感じる感情かもしれない。「昔はこんなんが許されてたんだ」と言った感じである。
システムを数時間落としても、マジの基幹部分以外はそこまで強く言われなかったし、それゆえに運用体制も「よしなに」回されていたという話である。もちろん人命に関わるところはそうではなかったとは思うが、逆に言えば「これ落としても人は死なんし」と言ったトーンであった。 昔のテレビ番組であったりしてもそうだった。今だったらSNSなどで一発で切り抜かれて炎上しそうなネタが平然と行われていた。そこまでは行かなくとも、十数年前のSNSでは、細かな表現に目くじらを立てるような人間もそんないなかったように思うし、実際そういう「めんどうな人間」が増えてきたのはここ最近のように思う。
なぜ、牧歌的でなくなったのか、さらに窮屈な社会になってしまったのかについては、世間で散々議論されているので置いておくとして。そのような生き方をしていた人たちには、相応の心の広さや余裕があったのだろうか。上で上げたようなゆるい運用・規制などで社会が回っていくには、そのような「ゆるさ」の裏で損をした人たち(上の例だと、システム運用でトラブルにあった人たちや、コンテンツの出しにされて気を悪く人たちだろう)がいるはずだろう。その人達の意見をどう抑えてきたのだろうか、それともそのような人たちは存在しなかったのだろうか。
私はそのような時代には行きてこなかったので、いい加減な仕事をされたりして痛い目にあったら相応に頭に来るだろう。私には、そのようなものを甘受する心の広さもないが、それをもし持ち得ていたら自分だけでも幸せになれるのではないか。 そう考えるところもあるが、これは自分だけの問題ではなく社会から要請される要件でもある。すなわち、「ゆるい」ことをして失敗しようもんならしっかり叩かれる。自分が許せるようなことでも社会からは許されない。
そのような自分と他者の寛容性に関する非対称性なんてのは、よっぽどの聖人じゃないとなし得ないと思う。自分が要求されていることは、無意識下で他者にも要求してしまうと思う。自分が「ゆるい」ことを許されない環境で育てば、他人が「ゆるい」ことをして自分が損しようもんならただでは済ませられないと思う。少なくとも私はそう。自分だって失敗して自分自身で損してるのに、他人の失敗まで受け止める余裕なんてない。
「牧歌的」と呼ばれていた時代だと、そのような他責による損失が多く発生するということなので、いくら自分が失敗しても許されやすい環境だといえ、自分だったら耐えられるだろうか。分からない。少なくとも自信はない。 ただ一つ言えるのは、今の一歩間違えたら刺されるような「ゆるさ」の無さと、社会全体で負荷試験してるような不寛容さの中では、そう長く生きられる気がしないということである。
(このページは首都高バトルをプレイしながら書かれています)